【 仏画 】(第20世 土岐秀岳筆)

仏画【 弘法大師(空海)】
弘法大師は宝亀5年(774年)現在の七十五番札所善通寺誕生院である、香川県屏風浦の佐伯家に生まれ、幼名を真魚(まお)と言いました。幼少の頃から儒教や文学、歴史などを学びました。12歳の頃讃岐の国学で学び、15歳で叔父の阿刀大足に連れられ、都に登りました。18歳から大学の明経道に入学。儒教並に仏教の指導も受けました。22歳で受戒し名を空海と改めました。31歳で唐の国へ渡ることになります。唐の長安の青龍寺で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から、密教のすべてを学び、真言密教第八祖となり、2年間の留学を終えて帰国。帰国後、1年あまりは九州にとどまり、唐で学んだ教えを広めました。翌年上京し真言宗開創の勅許を得ます。弘仁7年(816)には高野山に堂宇を建立し、修行の場を移しました。たくさんの仏教や文学の書も書き残していますが、弘法大師は国三筆の一人とされ、書の達人としても名高く知られています。承和2年(835)、弘法大師は高野山金剛峯寺において62歳で入定しました。延喜21年(921)に醍醐天皇は弘法大師号を贈っています。

仏画仏画【 達磨大師 1 】
禅宗の開祖。本名を菩提達磨といい、達磨大師ともいう。印度の香至王の子として生まれ、達磨60才頃に中国に入り禅を伝えた。崇山少林寺に住し、九年間壁に向かい座禅した話など伝説豊富。中国に入り禅を伝えた。梁の時代で武帝と会って問答した話は有名。

【 達磨大師 2 】
この画は、先代秀岳が知恩院で画の修行中におそらく描いたものである。落款に~~~~とある。秀岳和尚は達磨の画を好んで数多く描いていました。現存数は各所多方面に渡っており特に、髙尾山の関係のお寺、料理屋、信者さんのもとに贈られています。

仏画【 十三仏 】     昭和17年3月
この世に生を受けた瞬間から修行が始まると言われていますが、十三仏は「逆修行」と呼ばれています。亡くなったその時から始まる修行です。
一説によると、インドの起源とする、初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日の七仏(この七仏事までを中陰(ちゅういん)という。)があり、中国を起源とする、百ヵ日、一周忌、三回忌の三仏事、そして、日本起源とする、七回忌、十三回忌、三十三回忌の三仏事が合わさって、『十三仏事』となったといわれます。この『十三仏事』は12世紀から13世紀頃、一般に普及したといわれます。16世紀頃になると、十七回忌、二十三回忌の二仏事が加わり、『十五仏事』となり、その後に、四半世紀の二十七回忌、三十七回忌、半世紀の五十回忌、一世紀の百回忌の四仏事が加わり、『十九仏事』となったといわれます。
初七日  不動明王  のうまく さんまんだ ばざらだん かん
二七日  釈迦如来  のうまく さんまんだ ぼだなん はく
三七日  文殊菩薩  おん あらはしゃのう
四七日  普賢菩薩  おん さんまや さとばん
五七日  地蔵菩薩  おん かかかびさんまえい そわか
六七日  弥勒菩薩  おん まいたれいや そわか
七七日  薬師如来  おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
百カ日  観世音菩薩  おん あろりきゃ そわか
一周忌  勢至菩薩   おん さんざん ざん さく そわか
三回忌  阿弥陀如来  おん あみりたていせい からうん
七回忌  阿閃如来  おん あきしゅびや うん
十三回忌 大日如来  おん ばざらだどばん
三十三回忌 虚空蔵菩薩  おん ばざら あらたんのう おん たらく そわか
※ 尚、他に十七、二十三、二十七、三十七、四十三、四十七、五十、百回忌と営まれ、それぞれ大日如来がお導き下さる仏さまと定められています。

【 観音と月 】
この画は現在、秀岳の実弟(秀宥和尚)が入寺した川崎は中原区の常楽寺(まんが寺)にあります。この まんが寺は別名『日本漫画博物館』と称し観光寺としても全国的に有名で寺の襖からつい立、屏風まで有名な漫画家達によるユーモラスな画で一杯です。秀宥和尚没後は、当山現住職が約10年兼任住職として預かっておりました。

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